カテゴリ/高槻Life 投稿日/2018-08-12
たくさんの死者が出た西日本豪雨災害。
地震直後だったこともあり、ここ高槻でも、一日中サイレンの音が鳴り響き、落ちつくことができませんでした。
歴史を紐解いてみると、高槻は、淀川の恩恵を受けて発展してきた街。
高槻に暮らしてきた先人たちは、淀川の水を農業に使い、水運を巧みに利用して、現在の高槻市を築き上げてきました。
けれども、それは同時に、水害の可能性とも背中合わせだということ。
大雨が降れば、それまでの優しい姿は嘘のように、私たちに牙を向ける淀川。
高槻の歴史は、また、この淀川との戦いの歴史でもありました。
今からおよそ100年前の1917年10月1日。
この日の早朝、まずは芥川と芝生の堤防が、台風による連日の大雨にたえきれず、崩れ落ちてしまいました。
これだけでも、高槻にとっては恐ろしい状況。
しかし、その後、想像を絶する最悪の事態が発生します。
午前8時40分、淀川・大塚の堤防が轟音とともに決壊してしまったのです。
高槻の街を一瞬にして飲み込んだ濁流。
付近の大冠地域はもちろん、お昼を過ぎるころには、なんと天神山のふもとまで水が到達したといいます。
水位は高いところで2mを超え、現在のJR高槻駅以南の家々は次々と水に飲み込まれていきました。
もちろん被害は高槻だけにはとどまりません。
後に「大塚切れ」と呼ばれるこの氾濫は、三島郡はもちろん、大阪市まで巻き込み、まさに淀川の歴史に残る大災害となったのです。
現在、枚方大橋の高槻側に、ひっそりと立つ洪水記念碑。
そこには、大塚切れ当日の切迫した様子と、その後の復興に尽力する人々の奮闘が詳細に記されています。
そして、その最後には、後世を生きる私たちへのメッセージが・・・!
「居安必勿忘危(毎日、平穏に暮らしていても、決していつか危機がやってくるということを忘れてはいけない。)」
平和なときにこそ、非常時に対する備えを忘れないで・・・!
実際に大災害を体験した先人たちが、私たち高槻に住む子孫のために、万感の思いを込めて遺したその言葉は、何よりも強く心に訴えかけます。
昨2017年、大塚切れからちょうど100年を迎え、高槻市民が災害についての意識を新たにした矢先の大地震。
安心・安全な高槻の街をつくるために、今、私たちに何ができるのか・・・。
先人たちが見守るこの場所で、もう一度、防災について考えさせられた初秋の一日でした。
カテゴリ/高槻Life 投稿日/2018-08-12
「住みたい街」ランキング2024関西版!…
新型コロナウイルス感染症の位置づ…もっと見る
「ええあんばいな街・高槻市」の後継者づく…
たくさんの魅力的なお店が揃う高槻…もっと見る
JAたかつき「農風館野見町店」に行ってき…
高槻まつりや高槻ジャズストの際、…もっと見る
高槻「市民モニター」に聞く!「高槻って……
最近よく聞く「市民モニター」とい…もっと見る
「高槻阪急スクエア」に「たかつきけやきパ…
令和元年10月5日、「西武」から…もっと見る
高槻からもすぐ!茨木市「おにクル」「イコ…
最近、高槻市民の間でも、話題に上…もっと見る
日本をリードする高槻市の子育て政策
【高槻市の子育て支援①】小・中学…もっと見る
高槻まつり開催!高槻城公園芸術文化劇場ト…
令和5年8月5・6日の2日間、高…もっと見る