カテゴリ/高槻Life 投稿日/2018-02-25
今年は1868年の明治維新からちょうど150年の節目の年。
大河ドラマ「西郷どん」もこれから大いに盛り上がりを見せてくれるはずです。
今から150年前の1月、戊辰戦争の初戦ともいわれる「鳥羽・伏見の戦い」が開戦しました。
「鳥羽・伏見ということは結構近くだよね・・・。」なんて呑気なことを言っている場合ではありません!
実は、この戦い、私たち「高槻藩」も決して無関係ではなかったのです。
今回は、2018年2月21日に行われた、中西裕樹しろあと歴史館長による講座で教えていただいたお話をもとに、「高槻の幕末」について考えていきたいと思います!
ところで、皆さんは「洞ヶ峠を決め込む」という諺をご存じでしょうか?
洞ヶ峠とは、京都府八幡市と枚方市の間にある峠のことです。
かつて、本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が山崎の戦いを行ったとき、双方の戦況がよく見えるこの洞ヶ峠の地で、筒井順慶がどちらに付こうかと日和見をしていたという伝説が残されています。
正々堂々と戦わず、強い方に味方しようとする。
そんな皮肉が込められたこの屈辱的な言葉、実は、幕末、私たち「高槻藩」に投げかけられていたというのです!
「幕末の洞ヶ峠」の汚名を着せられた高槻藩。
これは、高槻市民としては黙っていられません。
実際の状況はどんなものだったのか、詳細に見ていきましょう。
幕末の激動期、高槻藩を治めていたのは、およそ220年にわたって藩主を務めた永井家。
鳥羽・伏見の戦いのときは、13代藩主永井直諒(なおまさ)の時代でした。
実は、高槻藩の永井氏は、よく知られる薩摩藩の島津氏や長州藩の毛利氏とは、同じ「大名」とはいうものの立場が大きく異なります。
戦国の時代、島津氏や毛利氏はもともと将軍家徳川氏と覇権を争ったいわばライバル大名。
徳川氏の支配が定まった後に服した「外様大名」です。
一方、永井氏は、昔から徳川に仕える「譜代大名」。
2代将軍徳川秀忠の側近中の側近として活躍していた信頼感から、3代将軍徳川家光の命で、京都と大坂を結ぶ交通の要所、ここ高槻に派遣されてきました。
当然、その信頼は幕末になってもかわりません。
もともとは敵であった外様大名には任すことができない、京都の大名火消しの仕事や、天皇の住む京都へと続く枚方の警備、天皇家の法要、江戸城の警護・・・などなど、たくさんの任務を担わされていたのです。
さらに、洞ヶ峠の警備も負わされて、本当に大変。
高槻藩は多くの兵力を取られ、鳥羽・伏見の戦いでは藩士のみで高槻城に籠城するのがやっとという状況でした。
しかも、藩主・永井直諒は、というと・・・?
前年から幕府への忠節を誓うため、他の譜代大名たちと一緒に江戸城にこもりっきりになっていたのです。
鳥羽・伏見の戦いのときは、江戸から高槻へと帰ってくる道中。
現在のようにテレビやスマホもありませんから、戦いが起こったことさえ知っていたのかどうか・・・。
人手不足に加え、藩主不在、さらには、すでに大政奉還を経て朝廷に権威が移る中、洞ヶ峠の警備を任されていただけで、「強い方に付こうと日和見をしていた!」と高槻が非難されるのは、納得がいきませんよね!
中西館長によると、現在、書店に並ぶ幕末本の中にも、「幕末の洞ヶ峠=高槻」という論調で書かれたものがあるとか。
明治維新150年のこの機会に、高槻市民としては、もっと幕末について学び、汚名をそそいでいかなければなりません。
「収蔵品に見る幕末の激動と高槻」合同企画展 (既に終了) での撮影風景
最後の薩摩藩主・島津忠義(久光の子)のものといわれる甲冑は、大河ドラマ「西郷どん」の全国巡回展でも展示される予定とのこと。
(※「しろあと歴史館」 の建築は、実は小阪工務店によるもの。高槻の歴史を語り継ぐ建物に携わることができるということは、小阪工務店の誇りでもあります!!)
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