築城400年、高槻城のミステリー

 カテゴリ/高槻Life 投稿日/2017-06-18

私たち高槻に住むものにとって、現存していないけれどなじみ深い城といえば、「高槻城」ですよね。
当時を偲ぶ城郭などは見られませんが、「城跡公園」や「城北」といった地名も残っているため、私たち高槻市民は、当たり前の存在として高槻城をとらえているのではないでしょうか?
 
けれども、実はこのお城、わかっていないことがたくさんあります。
また、わかっているけれど、私たち高槻市民がきちんと認知していないことも多くあります。
今回は、高槻城の謎とミステリーに迫ってみましょう!

高槻Lifeの写真1

まずは、基本的な謎について考えていきましょう。
高槻城、いったいいつ頃、誰によって築城されたのでしょうか?
 
高槻城主と聞いて、最初に名前があがるのが、高山右近。
けれども、実は彼がこの高槻の地を治めていたのはわずか十数年間のことだといわれています。
しかも、実際に高山右近が居城としていたころの高槻城がどのようなものだったのかということははっきりとはわかっていません。
ただ江戸時代の高槻城より小規模なものだったのではないかと考えられているのです。
 
一説には、10世紀の終わり頃、小さな城として築城されたともいわれる高槻城は、長年、芥川山城の支城であったとされています。
その後、和田惟政や高山右近の時代を経たのち、大坂の陣では徳川勢の重要な補給拠点として活躍しました。
1617年、土岐定義が統治する時代に幕府の改修によって、近代的な城として生まれ変わることとなりました。
そしてその後、高槻藩の藩主となった永井家が13代、実に200年以上もの間、ここ高槻城を居城とすることになるのです。

高槻Lifeの写真2

200年も高槻城に住んでいた永井家のお殿様たち。
けれども、よっぽどの歴史好きでなければ、すぐに名前が出てこないというのが現実。
彼らの10分の1、20年にも満たない高山右近の知名度に負けてしまうなんて・・・。
ちょっと切ない気もしてしまいますね^^;
 
何はともあれ、先ほどの1617年を高槻城の築城の年と考えると、今年は2017年、築城400年を迎えることになります。
ますます、注目を浴びる高槻城、実はこの記念すべき年に、また新たなミステリーが見つかりました!
 

高槻Lifeの写真3

以前から、使途がいまいちよくわからなかった不明門(あかずのもん)。
これだけでも十分ミステリーなのですが、実はこのたび、二ノ丸跡の発掘調査で、この不明門の前からちょうど野見神社に向かって1本の橋が架けられていたということがわかりました。
 
「なんだ、それなら不明門、普通に使われていたのでは!?」と長年の謎が解明したように思われますが、実はそう一筋縄にはいきません。
というのも、今回見つかったこの橋、当時の城の様子を表したどの絵図にもまったく描かれていないのです!
 

高槻Lifeの写真4

それもそのはず、確かにいったん架けられていたはずのこの橋、さらによく調べてみると、水面からギリギリの位置で切り取られ、まったくなかったことにされています。
当時から、水の中には橋の脚の部分が残されていましたが、水面にはまったく出ていないため、誰もそこに橋があるとは思っていなかったと考えられるのです。
 
野見神社から今回見つかったこの「幻の橋」を渡ると、そこは二ノ丸。
直進すれば、すぐに本丸、天守閣に到達します。
いったい何のために?
謎は深まるばかりです!
 

高槻Lifeの写真5

今回、しろあと歴史館のスタッフの方にお話をうかがってきましたが、結論は今後の発掘調査を待たなければわからないとのこと。
 
二ノ丸や本丸の工事のために架けた仮設の橋だったという説や、水害・火災などの非常時に使われたとする説、さらには、敵が攻めてきた際の目くらまし・・・など想像はどんどん膨らんでいきますね☆
 
野見神社には、永井家初代藩主・永井直清を祭神とする永井神社も存在します。
実際に現地を歩いてみるとよくわかるのですが、もしここに橋があったとしたら、天守閣からこの神社までは直通となります。
これも何か関係があるのでしょうか!?
 

高槻Lifeの写真6

まだまだたくさんの謎を残す高槻城。
築城400年の記念の年、また新たな報告が期待されます!
 

高槻Lifeの写真7

 カテゴリ/高槻Life 投稿日/2017-06-18